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2018年04月18日

掃除機の電源を入れて吸込口をゴミに近づけて吸い込むことを「掃除機を『かける』」。
パソコンの電源を入れてOSを起動して然るべき作業が出来るように準備することを「パソコンを『たちあげる』」。
などなど。
今さら意識せずそういうものと思って普通に言ってはいるが、掃除機やパソコンがこの世に誕生したときに、その動作に対してその動詞を使うことを決めたのは誰なのだろうか。掃除機を『まく』でも『おす』でもなく『かける』と呼ぶことにしたのはなぜなのか。
日本語を勉強している人から「ドウシテ『かける』ナンデスカ?」って訊かれたらどうすればよいのか。
いやそもそも「おす」とか「ひく」とか「わける」とか「はしる」とかの動詞の語源は何なのよとか、いやいやもっと言うと名詞だって「赤の語源は『あかるい』から!」って言うけどその「あかるい」はどこから来たのよとか、考えていたら朝になってしまいました。


2018年04月20日

女はなぜ土俵にあがれないのか
内館牧子「女はなぜ土俵にあがれないのか」。
これまでになくお相撲が条理・不条理な批判にさらされている真っただ中、「今こそこの書を」とTwitterで紹介されていたのがこの本だった。
…てっきり「女はなぜ土俵にあがれないのかムキー!!」っていう本だと思っていたが全く逆で、ムキー!!と喚く人を「まあ落ち着けや」と眼光鋭く諭し、かたや相撲協会に対しても「ピシッとせえや」と尻を叩く内容だった。タイトルのせいで避けていた当時の自分に張り手を食らわしたい気分である。

さて、ここからは何十年かぶりの読書感想文である。

私が何故お相撲を好きなのか。お相撲の何がよいのか。人から聞かれても「何となく」としか言えなかった部分がすべて書かれてあった。
古代から続く相撲の歴史と、その節目ごとに新たに作られ後付けされた伝統が入り混じった雑多なわけ分からなさこそがお相撲の面白さであり、それによって醸し出される非日常感こそ、私がお相撲に惹かれる理由なのだと分かって、読了後はなんとも清々しい気分になった。

例えば土俵築のとてつもなさ。
今でこそ協会Twitterなどで何度となく紹介されているため、何となく知ったつもりでいたが、「合理性」からあまりにも遠く離れ、呼出したちの間で静かに受け継がれる技術。こうして生み出される土俵を見て「ちょっと上がっていい?」とお気軽に言えるか。それは男女問わず、少なくとも「ヨカタ」が軽々しく触れてよいものではないなと改めて思う。

相撲から離れてそもそも「女は不浄なのか」を宗教的背景から捉えた第七章は、「日本には女の神様もいるのに何故?」と思っていた自分のモヤモヤが少し晴れた感じ(完全に晴れたわけではない)。

協会が抱える矛盾点を指摘し、解決方法を提示し、それでもやはり「そこまでしても土俵に上がりたがる女の気持に、まったく理解も同意も示せない」とし、どれだけ説明しても両者は分かりあえないのだと言う内館氏。それはこの文章が書かれた当時だけでなく、これを読んだ今もまさにその渦中にあるのはもう笑うしかない。
なかなか切ない結論ではあるが、あらゆる手段で揚げ足を取って叩くのが目的な人を説得するなど、考えてみれば無駄でしかないのだ。おそらく私が想像する以上の不条理な誹謗中傷を受けたであろう内館氏がいうくらいだから、これはもう仕方がないのだ。エネルギーをそんなものに使って心を削るくらいなら、お相撲さんがニコニコ笑ってるところや、美しい土俵入りを見ていた方がよいに決まっている。人生は限りがあるのだ。
協会の矛盾と云えば、千秋楽後の「神送り」の儀式が長い期間中断され、近年復活したものだというのは以前から聞いてはいたが、その理由が「胴上げしていて親方を落としちゃったから」だと知って驚いた。「おい!伝統はどうした!」と思わずツッコミを入れたが、これには内館氏も呆れた様子だった。
ちなみに、内館氏が「女性が土俵に上がる最終手段」として挙げていた「神送りで土俵の神様を帰してから表彰式をする」案が、先日私がたわむれに書いた内容とほぼ同じで、私がこの書から引用したと思われても言い逃れできないレベルでちょっと面白かった。ですよ。

本場所だけに限って言うと、千秋楽の結びが終わったら先に手打ち式と神送りをして神様を帰して鎮め物を取り出してから表彰式、ってことは出来ないのかしらって。神事はそこで終わってあとは協会のセレモニーって切り替えれば(十両以下の表彰もそこでやる)。

— かぢかづ (@kajikaz) 2018年4月8日


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