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2021年07月29日

「素晴らしい」という言葉はやっかいなもので、本来は好き・嫌いと同じくあくまでその対象に向けての受け取り側の感覚に過ぎません。
その人・ものが「素晴らしいという性質」を持っているわけではなく、それを見て各自が「あれは素晴らしいなあ」と思うだけです。
「あの表情は好ましい」「あの態度は気に入らない」といった個人的感想と変わらないはず、なのに、どういうわけか「素晴らしい」だけはたびたび絶対評価のような面をしてやって来るのです。

先日の東京オリンピック、柔道男子73キロ級決勝戦で金メダルを取った選手。
勝っても表情を変えず声を上げることもなく、静かに礼をして畳を降りて行った、その姿に多くの人が「素晴らしい」「立派だ」と称賛の声を上げていました。
スポーツに限らず、感情を表に出さない姿はマスコミなんぞでも「美学」という言葉を添えてしばしば好意的に取り上げられています。
その世界の頂点に立ったともあれば嬉しいに決まってます。それを押し殺していつもと変わらぬ所作を貫けるのは、日頃の鍛錬や「勝って喜びを表に出すのは負けた相手に失礼」という本人の考え方によるものでしょう。それはその人の美学であり、それを見て感銘を受けるのも分かります。
いや実際素晴らしいと思いますよ。

でもね。
それを見て「あの人は素晴らしい」「あの人の考え方は素晴らしい」という単なる個人の感想を「それに引き換えあいつは」と、翻って他の人を殴る武器にしてはダメでしょう。
相手を尊重して礼を尽くすのは大前提として、それを自分の中でどう消化して実践するかは人それぞれです。
表情に出しちゃいけないのにニコニコしちゃった!
何か全部吹っ飛んでガッツポーズしちゃった!
事情は色々あるでしょう、それをいちいち外野がそこだけ捉えて自分の中の「素晴らしい」で今それ関係ないだろって人を殴りに行ってるケースがあまりに多くて、そりゃお前、「お前が素晴らしいと思っている人」にも失礼だろう、その人はそんな使われ方をされるのを望んでないだろうと、もううんざりしてしまいました。

ところで「勝って喜びを表に出すのは負けた相手に失礼」という考え方があるなら、負けた側の捉え方も人それぞれあると思うのですが、どうなのでしょう。
「嬉しいはずなのに情けをかけられて悔しい!」
「俺なんかに勝っても嬉しくないんだ悔しい!」って思いませんかね。

てなことを、今日行われた男子100キロ級決勝で何度もガッツポーズをし涙を流して喜ぶ勝者と、しばらく畳の上に仰向けになった後で勝者の腕をあげて讃えた敗者の姿を見ながら考えていました。
ああ、素晴らしいなあ。


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